春の台湾日記

私と台湾

「KANO 1931海の向こうの甲子園」を観て

1月に訪台して以降、しばらくしてCOVID-19の影響により台湾観光が難しい状態になり、2020年4月6日現在、原則日本人は台湾に入国できない状況です。

台湾に行けない間、台湾華語を学んだり、台湾映画を見たり、台湾に関する本を読んだりとしているうちに、行きたい熱がどんどん高まっています。

YouTubeで台湾華語を聴いているだけでホッとするような気持ちになります。他には視聴華語を使ったり、Tandemという語学交換アプリを利用しています。Tandemには学習意欲が高い人が多くいるので、自分も頑張らないとなーというモチベーションUPにも繋がっていたり、人からもらっているメッセージを返さないわけにはいかないので、継続的に台湾華語に触れるきっかけになっているなと感じています。

昨日、「KANO 1931海の向こうの甲子園」を鑑賞しました。台湾を好きになってすぐにこの映画のことを知りましたが、野球にあまり興味がなかったため、今まで見ていませんでしたが、今年の1月に初めて嘉義を訪ね、この町が大好きになったので、ようやくこの映画を見ることに決めました。

この映画の監督は、映画「セデック・バレ」でタイモ・ワリス役を演じた馬志翔、プロデューサー兼脚本の魏徳聖は「セデック・バレ」で脚本兼監督を務めた人物です。

「KANO」に描かれている嘉義農林高校が甲子園に初出場したのは、霧社事件の翌年です。霧社で原住民による抗日暴動が起こっていた同時期にそう遠くない嘉義漢人、日本人、高砂族が同じチームで一緒に力を合わせてプレーしていたということだけをとっても、台湾という国が歩んできた歴史の複雑さ、良いことも悪いことも日本との関係の深さが分かります。

この映画、冒頭から一気に心を掴まれてしまいました。そこから物語にのめり込み、そして、エンドロールがまたとても良く、彼らの人生に思いを馳せました。

映画を見る前に行った嘉義と、観た後にこれから行く嘉義とでは、また思い入れが異なるだろうと思います。台湾に行けるような状況になったら、いち早く嘉義に足を運ぼうと決めました。

5回目の訪台(台北〜台中〜嘉義〜高雄〜花蓮〜台北)7日目 (終)

今回私が台湾に行った時には、台湾観光局による、訪台200万人達成感謝祭が行われており、日本人旅行者を対象に記念ビールグラスをプレゼントして頂けるというイベントが開催中でした。

訪台する日本人は10年前に比べておよそ2倍に増えています。

対して、訪日する台湾人はおよそ500万人で、これは台湾の人口が2400万人ほどであることを考えると、訪台する日本人はもっともっと増える余地があるのではないかなとも思います。

今後も日本と台湾との関係がさらに良いものになっていくと良いな〜と思います。

これからもたくさん台湾に足を運びたいと思います。

グラス、とても嬉しく、ありがたいことです。

とても素敵なデザイン!

5回目の訪台(台北〜台中〜嘉義〜高雄〜花蓮〜台北)7日目 台北(迪化街)

初めて、迪化街に行きました。1時間を予定していましたが、本屋さん、雑貨屋さん、食べ物屋さんと気になる店がありすぎて2時間でも時間が足りませんでした。

迪化街

夏樹甜品の杏仁豆腐 杏仁ミルクがたっぷりです

迪化街の雲彩軒で、ドリンクホルダーを買いました。台湾に来るようになってからドリンクホルダーが欲しかったのですが、なかなか気に入るものが見つからず…今回ぴったり来るものを買えてとても嬉しかったです。おまけでお店からもドリンクホルダーを頂き、一気に2個持ちになりました。

苗栗県苑裡地方に伝わる藺草編みによる手作りのドリンクホルダーです。素材が無漂白、無染色で使われており、複雑な工程を経て、こんなにも素晴らしい商品に仕上がったそうです。この他にもカードホルダー、ペンケース、しおり、トートバッグといった魅力的な商品がたくさんありました。

がま口ポーチとピアスは、嘉義の台湾花磚博物館による商品で、マジョリカタイルがモチーフになっています。柄によって様々な意味が込められています。

雲彩軒で購入した商品

迪化街の書店で購入した日本統治時代の地図がプリントされたファイル

今回の旅で頂いたパンフレット類

5回目の訪台(台北〜台中〜嘉義〜高雄〜花蓮〜台北)7日目 花蓮〜台北(国立台湾博物館)

今度は七星潭にも行かないとなあ〜と未練タラタラで花蓮を後にします

花蓮駅で美味しそうな三明治を発見!

ハム玉子

ストロベリーチーズ

8:00花蓮発、10:08台北着の自強号で台北へ戻ります。花蓮から台北まで、2時間ほどで着くなんて、思っていたよりも近いなあと感じます。

台北に着くと、まずは二二八和平公園内の国立台湾博物館に向かいました。今までは台北には飛行機の到着日と出発日前日くらいしか滞在しないことが多く、国立台湾博物館にはずっと行きたいと思いながら一度も行けていませんでした。

ここでは受付で日本語の音声ガイドを借りることができます。これがあるのとないのとでは、理解度と展示見学のスムーズさが全く違ったので、とてもありがたいサービスでした。

この時の企画展はアボリジニアーティストの樹皮画でした。樹皮画の実物はもちろん、樹皮を剥がすところから作品の作成過程の映像が見られたのはとても興味深かったです。

常設展では、台湾の自然史がどのように発展していったのかということが数多くの標本とともに展示、解説してあり、日本統治時代の日本人学者についての展示もありました。

また、台湾総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平銅像も展示してありました。

1915年に建設された、台湾で最も歴史のある博物館

その後、晴美自助餐でお昼ご飯を食べました。自助餐大好きです!

5回目の訪台(台北〜台中〜嘉義〜高雄〜花蓮〜台北)6日目 花蓮(四八高地花枝羹 / 周家包子/西瓜大王)

花蓮での最後の夕ご飯は、まず、四八高地花枝羹で花枝羹というイカのつみれスープと魯肉飯を食べました。

花枝羹

魯肉飯

次に公正包子と隣り合う周家包子で小籠包を外帯しました。ここの小籠包は予想以上に美味しく、3個しか買わなかったことを後悔するほどでした。公正包子もまた食べ比べてみたいです。 周家包子

皮がモチモチの絶品小籠包

花蓮滞在中何度もその前を通り過ぎながら、頼めずにいた西瓜ジュースを西瓜大王で注文しました。冬だし、正直、そんなに美味しくないかもしれないなあ〜とあまり期待せずに飲んだ所、とても甘くて非常に驚きました。なんでも、その時期に最も甘いスイカを台湾中から取り寄せているそうです。きっと夏に飲んだらもっと甘いのだと思います。西瓜大王目当てに夏に花蓮に来ようと決めるほどお気に入りのお店になりました。

とても甘くて美味しいスイカジュース スイカミルクも飲んでみたいです

5回目の訪台(台北〜台中〜嘉義〜高雄〜花蓮〜台北)6日目 縦谷花蓮線(鯉魚潭)

14:57鳳林駅発、15:35鯉魚潭潭南遊憩區着のバスで次の目的地へ。

鯉魚潭は南北に長く東西に狭い楕円形の湖です。名前の由来は湖の東側の鯉魚山です。周りには4kmの一周道路が作られており、周囲をハイキングやサイクリングをすることができます。ハイキングでは1時間ほど、サイクリングでは30分ほどで湖を一周することができます。また、多くの人がスワンボートやペダルボートで楽しんでいて、とても羨ましかったです。

4、5月には蛍の飛翔を観察することができるそうです。季節によって水量も違うそうなので、季節によって異なる表情を見ることができます。

鯉魚潭

写真にはその美しさを表しきれませんでしたが、本当に綺麗で、いつまで見てても飽きませんでした。2時間半滞在していました。

鯉魚潭遊客服務中心では花蓮の地形について、原住民についての展示が充実しており、とても興味深く見学しました

17:58鯉魚潭潭南遊憩區発のバスで花蓮駅へ帰り、今日はここまでとなりました。時間の都合で慶修院には行けませんでしたが、次回は必ず行きたいと思います。

花蓮にはこの他にも行きたい場所が多く残っており、また、町の雰囲気もとても好きなので、必ず再訪しようと思います。

二二八事件から73年

好きなバンドのライブを見るために初めて台湾に行った時、私は台湾のことを何も知らずに九份を訪れていました。(訪台前の私の台湾についてのイメージは台湾=九份でした)

この時、階段から見る景色や、観光客が引いた後の街並みの雰囲気が好きになり、九份のことを調べるうちに『悲情城市』という映画のことを知り、何度も見るほど大好きになりました。

この映画は、第二次世界大戦終結後の台湾のまさに激動の時代を描いています。正直初めて見た時は、正直なところ、内容が全くといっていいほど理解できませんでした。その後、このDVDの特典映像である歴史年表(クリックすると映画内のその箇所へジャンプするようになっています)や、地図、監督のインタビューを何度も繰り返し見たり、台湾についての本を十数冊ほど読んだりして、ようやくだんだんとこの映画が分かるようになってきました。

初めて台湾に行ってから1年後には台北二二八紀年館(日本語表記では”記念館”)を訪れ、日本語の音声ガイドを聴きながら見学させて頂きました。

二二八事件は、闇タバコを売っていた女性を、取締官が摘発したことから始まります。取締官がその女性に怪我を負わせたことを見ていた人々が現場を取り囲み、その場から取締官が逃げながら発砲した弾によって無関係な人を誤殺してしまったことが事件の発端です。

翌日の朝になっても取締官の処罰がされなかったことからデモが広がり、それまでに積りに積もっていた不満が爆発したのです。デモ隊に向かって憲兵が機銃掃射を行い、死傷者が出たことで現場は収拾不能の事態に陥っていました。

一部の民衆は、現場近くの台湾広播電台に放送で事件を伝えるように求め、(この台湾広播電台が現在の台北二二八紀年館です。)事件の発生は瞬く間に台湾全土に広まりました。

民衆たちは、民意に耳を傾けず、人命を顧みない当局に憤り、外省人に暴行を加えるといったことも起こりました。

そのような事態に陥った結果、2月28日、台北市戒厳令が布告されました。

元々は先の事件の犯人の処罰を求める治安事件だったのが、政治改革運動へと変わっていったのです。

ラジオによって台湾全土に事件が伝えられたことによって、各地で衝突が起きました。

この後、行政長官の陳儀は改革派を全面的に逮捕し、鎮圧し、武力掃蕩を展開しました。この犠牲になった人々は社会的リーダーであり、多くは議員でした。他にも、新聞社主、教師、医師、企業家など多くの人々が犠牲になりました。

さらに、政治批判を行ったり、政治活動団体に入っていた人々は、不当に逮捕されて、審判を受けることもなく処刑されました。

死傷者の総数は正確には分かっていませんが、1万8000人から2万8000人にものぼると言われています。

この事件によって、台湾は本当に多くを失いました。1987年に戒厳令が解除されるまでの長い間、台湾の人々は二二八事件のことを語ることはできませんでした。

このわずか4年後の1991年に公開されたのが『悲情城市』です。当時台湾の人々がどのような気持ちでこの映画を見ていたのか、私には到底想像が及びません。

こんな困難な歴史を抱えながら民主化に成功した今も、台湾は、様々な問題を抱えています。

これからも台湾についてたくさんのことを知っていきたいし、たくさん台湾に行きたいなあ、などと考えに耽った2月28日でした。

二二八紀念館で購入した資料集とクリアファイル

二二八紀念館(旧台湾広播電台

九份 (私は勝手にここを"裏の階段"と呼んでいます)

昇平戲院

1914年、基山街にまず木造2階建ての劇場が建てられましたが、耐久性が低かかっため、大風によって倒壊してしまいました。 その後、1934年に昇平座という劇場が豎崎路と軽便路の交叉する場所に建てられました。1951年には名前が昇平戯院に変わり、1962年には建て直されました。

金鉱採掘の衰退に伴って、1986年には閉鎖されてしまいましたが、2010年に1962年当時の姿が復元され、『昇平座』という名前も再び使われるようになったそうです。

現在館内は無料公開されており、展示や昔の映画上映が行われていますが、私はまだ入れたことがありません。ここで『悲情城市』を見るという悲願を達成したいです。

人気のない基山街

宿から見た、豎崎路を下りたところ(九份警察署付近)