春の台湾日記

私と台湾

二二八事件から73年

好きなバンドのライブを見るために初めて台湾に行った時、私は台湾のことを何も知らずに九份を訪れていました。(訪台前の私の台湾についてのイメージは台湾=九份でした)

この時、階段から見る景色や、観光客が引いた後の街並みの雰囲気が好きになり、九份のことを調べるうちに『悲情城市』という映画のことを知り、何度も見るほど大好きになりました。

この映画は、第二次世界大戦終結後の台湾のまさに激動の時代を描いています。正直初めて見た時は、正直なところ、内容が全くといっていいほど理解できませんでした。その後、このDVDの特典映像である歴史年表(クリックすると映画内のその箇所へジャンプするようになっています)や、地図、監督のインタビューを何度も繰り返し見たり、台湾についての本を十数冊ほど読んだりして、ようやくだんだんとこの映画が分かるようになってきました。

初めて台湾に行ってから1年後には台北二二八紀年館(日本語表記では”記念館”)を訪れ、日本語の音声ガイドを聴きながら見学させて頂きました。

二二八事件は、闇タバコを売っていた女性を、取締官が摘発したことから始まります。取締官がその女性に怪我を負わせたことを見ていた人々が現場を取り囲み、その場から取締官が逃げながら発砲した弾によって無関係な人を誤殺してしまったことが事件の発端です。

翌日の朝になっても取締官の処罰がされなかったことからデモが広がり、それまでに積りに積もっていた不満が爆発したのです。デモ隊に向かって憲兵が機銃掃射を行い、死傷者が出たことで現場は収拾不能の事態に陥っていました。

一部の民衆は、現場近くの台湾広播電台に放送で事件を伝えるように求め、(この台湾広播電台が現在の台北二二八紀年館です。)事件の発生は瞬く間に台湾全土に広まりました。

民衆たちは、民意に耳を傾けず、人命を顧みない当局に憤り、外省人に暴行を加えるといったことも起こりました。

そのような事態に陥った結果、2月28日、台北市戒厳令が布告されました。

元々は先の事件の犯人の処罰を求める治安事件だったのが、政治改革運動へと変わっていったのです。

ラジオによって台湾全土に事件が伝えられたことによって、各地で衝突が起きました。

この後、行政長官の陳儀は改革派を全面的に逮捕し、鎮圧し、武力掃蕩を展開しました。この犠牲になった人々は社会的リーダーであり、多くは議員でした。他にも、新聞社主、教師、医師、企業家など多くの人々が犠牲になりました。

さらに、政治批判を行ったり、政治活動団体に入っていた人々は、不当に逮捕されて、審判を受けることもなく処刑されました。

死傷者の総数は正確には分かっていませんが、1万8000人から2万8000人にものぼると言われています。

この事件によって、台湾は本当に多くを失いました。1987年に戒厳令が解除されるまでの長い間、台湾の人々は二二八事件のことを語ることはできませんでした。

このわずか4年後の1991年に公開されたのが『悲情城市』です。当時台湾の人々がどのような気持ちでこの映画を見ていたのか、私には到底想像が及びません。

こんな困難な歴史を抱えながら民主化に成功した今も、台湾は、様々な問題を抱えています。

これからも台湾についてたくさんのことを知っていきたいし、たくさん台湾に行きたいなあ、などと考えに耽った2月28日でした。

二二八紀念館で購入した資料集とクリアファイル

二二八紀念館(旧台湾広播電台

九份 (私は勝手にここを"裏の階段"と呼んでいます)

昇平戲院

1914年、基山街にまず木造2階建ての劇場が建てられましたが、耐久性が低かかっため、大風によって倒壊してしまいました。 その後、1934年に昇平座という劇場が豎崎路と軽便路の交叉する場所に建てられました。1951年には名前が昇平戯院に変わり、1962年には建て直されました。

金鉱採掘の衰退に伴って、1986年には閉鎖されてしまいましたが、2010年に1962年当時の姿が復元され、『昇平座』という名前も再び使われるようになったそうです。

現在館内は無料公開されており、展示や昔の映画上映が行われていますが、私はまだ入れたことがありません。ここで『悲情城市』を見るという悲願を達成したいです。

人気のない基山街

宿から見た、豎崎路を下りたところ(九份警察署付近)